Masuk結婚式の中止を伝える電話は、想像以上に辛かった。
夕夏の両親は、最初は何が起きたのか理解できない様子だった。母は泣き、父は怒りに震えた。慎一郎の家族への連絡は、夕夏が拒否したため、慎一郎自身が行うことになった。
招待客へのキャンセル通知も、夕夏が一人で送った。百二十三人。一人ひとりに、簡潔だが丁寧な文章を書いた。理由は「諸般の事情により」とだけ記した。
式場、ドレスショップ、花屋、カメラマン――すべてにキャンセルの連絡を入れた。キャンセル料だけで八十万円。しかし、それは問題ではなかった。お金は後から稼げる。失った時間は戻らないが。
会社には、一週間の休暇を申請した。上司の田村は、夕夏の様子を見て、それ以上何も聞かなかった。
「休め。お前は十分頑張った」
その言葉が、不思議と夕夏の心に響いた。
一週間の休暇中、夕夏はほとんど外に出なかった。ただ、部屋の中で、自分の人生を見つめ直した。
三十二歳。グラフィックデザイナーとしては、中堅どころ。実績もある。しかし、そのほとんどは「安全な」仕事だった。クライアントの要望を正確に形にする。納期を守る。クオリティを保つ。
しかし、夕夏自身が「これを作りたい」と心から思ったものは、何もなかった。
大学でデザインを学び始めた頃は、違った。夕夏は、視覚表現で世界を変えられると信じていた。一枚のポスターが、人の心を動かせると信じていた。
しかし、社会に出て、現実を知った。デザインはビジネスだ。クライアントの売上を伸ばすためのツールだ。芸術ではなく、商業だ。
そして夕夏は、いつの間にか、自分の情熱を忘れていた。
休暇の五日目、夕夏は久しぶりに外に出た。目的地は、渋谷の大型書店だった。
デザイン書のコーナーで、夕夏は一冊の本を手に取った。『Why Design Matters』――なぜデザインが重要なのか。著者は、ニューヨークを拠点にする日系デザイナーだった。
その本の中に、一節があった。
「デザインは問題解決ではない。デザインは質問を投げかけることだ。世界はこれでいいのか? もっと美しく、もっと意味のある形があるのではないか? デザイナーは、その問いを形にする者だ」
夕夏は、その場で立ち尽くした。涙が、また溢れてきた。しかし今度は、悲しみの涙ではなかった。
それは、何か大切なものを思い出した時の、懐かしさと切なさが混じった涙だった。
夕夏は、その本を買い、近くのカフェに入った。窓際の席に座り、コーヒーを注文し、本を読み始めた。
二時間後、夕夏は本を閉じた。そして、カバンからスケッチブックとペンを取り出した。
何を描くべきか、わからなかった。ただ、手が動いた。
最初に描いたのは、砕けたグラスだった。破片が四方に散らばっている。しかし、その破片一つひとつが、光を反射して輝いている。
次に描いたのは、鳥だった。檻から飛び立つ鳥。翼を広げて、空へ向かう姿。
そして最後に、夕夏は自分の顔を描いた。しかしそれは、鏡を見て描いたのではなく、想像で描いた「これからの自分」だった。
強い眼差し。決意に満ちた表情。そして、微かな笑み。
夕夏は、スケッチブックを閉じた。そして、スマートフォンを取り出し、メモアプリを開いた。
タイトルを打った。「小暮夕夏の再起計画」。
そして、箇条書きで書き始めた。
会社を辞める
フリーランスのデザイナーとして独立する
自分が本当に作りたいものを作る
経済的に自立する
誰にも依存しない
書き終えて、夕夏は深呼吸した。
これは無謀だろうか? 三十二歳で、安定した仕事を捨てて、フリーランスになる。コネもなく、資金も限られている。
しかし、夕夏には選択肢がないように思えた。このまま会社に戻れば、また以前の自分に戻ってしまう。安全だが、情熱のない日々。
それよりも、失敗するかもしれないが、自分の道を歩む方がいい。
夕夏は、カフェを出て、夕暮れの渋谷を歩いた。スクランブル交差点には、いつものように大勢の人々が行き交っていた。
その群衆の中で、夕夏は一人、立ち止まった。そして、周りの人々を見た。
みんな、どこかへ向かっている。目的地がある。それは仕事かもしれないし、家かもしれないし、誰かとの待ち合わせかもしれない。
夕夏にも、今、目的地ができた。それは場所ではなく、「なりたい自分」という目的地だった。
翌日、夕夏は会社に復帰した。そして、田村上司に辞表を提出した。
「辞める? お前、正気か?」
田村は、驚きを隠さなかった。
「はい。独立します」
「独立? フリーか? 甘く見るなよ、小暮。この業界でフリーランスとして生き残るのは、会社員の十倍大変だぞ」
「わかっています。でも、やらないと後悔すると思うんです」
夕夏の目を見て、田村は何かを感じ取ったようだった。
「あの男のことか」
夕夏は頷いた。
「あいつは馬鹿だな。お前みたいな優秀なデザイナーを手放すなんて」
「ありがとうございます」
「しかし、お前が辞めるのは会社としては痛いぞ。クライアントからの評判もいいし、後輩の面倒見もいい」
「すみません」
「謝るな。自分の人生だ、自分で決めろ」
田村は、そう言って、辞表を受け取った。
「一ヶ月後か。引き継ぎはちゃんとやってくれよ」
「もちろんです」
その日の夜、夕夏は自分の部屋で、ノートパソコンを開いた。そして、新しいフォルダを作った。
名前は「KOGURE DESIGN」。
夕夏は、自分の屋号を決めた。小暮デザイン事務所。シンプルだが、自分の名前を前面に出す。もう誰かの影に隠れない。
そして、夕夏は自分のポートフォリオサイトの制作を始めた。HTMLとCSSのコーディングは、大学時代に学んだスキルだった。長い間使っていなかったが、体が覚えていた。
サイトのデザインは、ミニマルにした。白を基調に、タイポグラフィを効果的に使う。自分の作品を、シンプルに、しかし印象的に見せる。
About(自己紹介)のページに、夕夏は書いた。
「私は、問いを投げかけるデザイナーです。クライアントのビジネスを成功させることはもちろんですが、それだけではありません。デザインを通じて、『本当にこれでいいのか?』『もっと良い方法があるのではないか?』という問いを、世界に投げかけたいと思っています」
書き終えて、夕夏は何度も読み返した。これは、理想論だろうか? 現実のビジネスでは通用しないだろうか?
しかし、夕夏は消さなかった。これが、自分の信念だ。
翌週、夕夏は初めてのフリーランス案件を獲得した。それは、田村上司が紹介してくれた、小規模なカフェのロゴデザインだった。
「お前の餞別だ。ただし、手を抜くなよ」
田村の言葉に、夕夏は深く頭を下げた。
カフェのオーナーは、六十代の女性だった。夫を亡くし、長年の夢だったカフェを開くという。
「私、デザインのことは全然わからないんです。でも、温かくて、懐かしい感じがいいなって」
オーナーの言葉を聞いて、夕夏は何度もヒアリングを重ねた。どんなコーヒーを出すのか。どんな客層を想定しているのか。どんな思い出があるのか。
そして、三週間後、夕夏はロゴを完成させた。
それは、コーヒーカップから立ち上る湯気が、柔らかな曲線を描いているデザインだった。湯気は、よく見ると、音符のような形をしている。
コンセプトは「記憶の香り」。コーヒーの香りが、大切な人との思い出を呼び起こす。音楽のように、心に響く。
オーナーは、そのロゴを見て、涙を流した。
「これです。これが私の求めていたものです」
その瞬間、夕夏は感じた。これが、デザインの本当の力なんだと。売上を伸ばすためのツールではなく、人の心に触れるもの。
報酬は、五万円だった。会社員時代の月給と比べれば、微々たるものだ。しかし、夕夏にとって、それは何よりも価値のあるお金だった。
会社を辞める日、同僚たちが送別会を開いてくれた。
「小暮さん、本当にお世話になりました」
後輩の山田が、涙ぐみながら言った。
「こちらこそ。これからも頑張ってね」
田村は、夕夏に一本のボトルワインを渡した。
「いいか、小暮。フリーランスは孤独だ。しかし、孤独だからこそ、自分の信念を貫ける。迷ったら、このワインを開けろ。そして、初心を思い出せ」
「ありがとうございます。田村さん」
その夜、夕夏は一人で、新しい人生のスタートラインに立った。
不安はあった。しかし、それ以上に、期待があった。
自分の翼で飛ぶ。自分の足で立つ。自分の声で語る。
小暮夕夏の、本当の人生が、始まろうとしていた。
結婚式の中止を伝える電話は、想像以上に辛かった。 夕夏の両親は、最初は何が起きたのか理解できない様子だった。母は泣き、父は怒りに震えた。慎一郎の家族への連絡は、夕夏が拒否したため、慎一郎自身が行うことになった。 招待客へのキャンセル通知も、夕夏が一人で送った。百二十三人。一人ひとりに、簡潔だが丁寧な文章を書いた。理由は「諸般の事情により」とだけ記した。 式場、ドレスショップ、花屋、カメラマン――すべてにキャンセルの連絡を入れた。キャンセル料だけで八十万円。しかし、それは問題ではなかった。お金は後から稼げる。失った時間は戻らないが。 会社には、一週間の休暇を申請した。上司の田村は、夕夏の様子を見て、それ以上何も聞かなかった。「休め。お前は十分頑張った」 その言葉が、不思議と夕夏の心に響いた。 一週間の休暇中、夕夏はほとんど外に出なかった。ただ、部屋の中で、自分の人生を見つめ直した。 三十二歳。グラフィックデザイナーとしては、中堅どころ。実績もある。しかし、そのほとんどは「安全な」仕事だった。クライアントの要望を正確に形にする。納期を守る。クオリティを保つ。 しかし、夕夏自身が「これを作りたい」と心から思ったものは、何もなかった。 大学でデザインを学び始めた頃は、違った。夕夏は、視覚表現で世界を変えられると信じていた。一枚のポスターが、人の心を動かせると信じていた。 しかし、社会に出て、現実を知った。デザインはビジネスだ。クライアントの売上を伸ばすためのツールだ。芸術ではなく、商業だ。 そして夕夏は、いつの間にか、自分の情熱を忘れていた。 休暇の五日目、夕夏は久しぶりに外に出た。目的地は、渋谷の大型書店だった。 デザイン書のコーナーで、夕夏は一冊の本を手に取った。『Why Design Matters』――なぜデザインが重要なのか。著者は、ニューヨークを拠点にする日系デザイナーだった。 その本の中に、一節があった。「デザインは問題解決ではない。デザインは質問を投げかけることだ。世界はこれでいいのか? もっと美しく、もっと意味のある形があるのではないか? デザイナーは、その問いを形にする者だ」 夕夏は、その場で立ち尽くした。涙が、また溢れてきた。しかし今度は、悲しみの涙ではなかった。 それは、何か大切なものを思い出した時の、懐かしさ
小暮夕夏は、Macbookの画面を見つめながら、自分の手が震えていることに気づいた。Adobe Illustratorで開いているのは、三日後に挙げる予定の結婚式のウェルカムボードのデザインだった。彼女が三週間かけて作り上げた、淡いピンクとアイボリーを基調とした優しいデザイン。中央には、彼女と慎一郎の名前が、彼女が選んだ繊細なセリフ体で配置されている。 しかし今、その画面はぼやけて見えた。視界を涙が覆っていた。 三十二歳の誕生日を迎えたばかりの夕夏は、この五年間、望月慎一郎というひとりの男性のために生きてきた。いや、正確には「生きてきた」ではなく「捧げてきた」と言うべきかもしれない。 都内の中堅デザイン会社でグラフィックデザイナーとして働いていた夕夏は、クライアントとの打ち合わせで慎一郎と出会った。当時、IT関連のスタートアップを立ち上げたばかりの慎一郎は、自社のブランディングを依頼してきた。三十四歳で、野心的で、夢を語る目が輝いていた。「君のデザインには温かみがある。でも同時に、強さもある。まさに僕が求めていたものなんだ」 最初の打ち合わせで、慎一郎はそう言った。夕夏の心は、その言葉で完全に捕らえられた。 それから五年。夕夏は慎一郎のビジネスを支えるため、週末も惜しまず彼のプロジェクトに協力した。会社の仕事が終われば、夜遅くまで慎一郎の資料作成を手伝った。彼が資金繰りに困れば、自分の貯金を躊躇なく差し出した。 そして今、結婚式の三日前。 夕夏は、スマートフォンの画面に映る一枚の写真を見つめていた。それは、彼女の親友――桜井由香里が送ってきたものだった。 写真には、慎一郎と由香里がホテルのラウンジで、親密に寄り添っている姿が写っていた。しかし、写真以上に夕夏を打ちのめしたのは、添えられたメッセージだった。「夕夏、ごめん。どうしても言わなきゃいけないと思った。私、妊娠してるの。慎一郎さんの子供を」 夕夏の世界が、音を立てて崩れ落ちた。 由香里は、夕夏が大学時代から十年以上付き合ってきた親友だった。就職活動も一緒に乗り越え、恋愛の相談も互いにしてきた。夕夏が慎一郎と付き合い始めた時も、一番に喜んでくれたのは由香里だった。 いや、違う。あれは喜びではなく、獲物を見つけた時の笑みだったのだろうか。 夕夏は、震える指でスマートフォンを操作し、慎